エピソード(2) 危ないピアノ教師

ピアノ

見るからにその男はピアノ教師だった。青白く長い指と少しウェーブした髪、顔は似ていないが、感じとしては若い頃の田村正和といったところか。

内容証明書お願いできますか。
司法書士
お話を伺いましょう。

男は先日某楽器店に行き、グランドピアノの購入を決めた。ローンを組む際に、楽器店で提携しているローン会社では金利が高いので、他の金融機関を使いたい旨了承してもらった。男は楽器店からのその足で最寄りの銀行に立ち寄り、ローンを組みたいと申し出た。銀行からは検討したいので少し時間を下さいと言われた。

それから数日して楽器店から男に電話があり、今からグランドピアノを運びたいと言う。さて、此処のところがこの話の山となる。この時、男は、まだローンが組めるかどうか判らないことを、楽器店に告げたのかどうか。一番大事なところなのに、その所がどうもはっきりしない。男は古いピアノを既に処分してしまっていたので、ピアノ教師としては一日でも早くグランドピアノが必要であったため、楽器店からの申し出を一も二もなく了承した。

銀行からローンが組むことができないと言う返事が来たのは、すっかりグランドピアノが、男の家に添え付けられた後だった。男も驚いたが、もっと驚いたのは楽器店である。その後双方で、いくつものローン会社に当たってみるのだが、答えは何処も同じであった。

僕は、一度も金を払わないなんて言っていないんです。少しずつ返すからと頼んでも、今すぐグランドピアノを返してくれの一点張りで、しかも既に中古品になってしまったのだから、その分の保証もしろと言うんです。これです。

男は楽器店から送られてきたという内容証明書を差し出した。

司法書士
つまり、こちらは『お金は返すから、グランドピアノは返さない』という内容証明書で対抗したいわけですね。

私は一瞬「まずいな」と思ったが、結局「引き受けましょう」と答えていた。何故って、もしもローンが組めるかどうか判らないことを、事前に楽器店に伝えてあったとしたら、男にも少しは同上の余地があると思ったからだ。

この不況である。楽器店の方も少し性急にピアノを売りつけたところは無かっただろうか。見込んだ報酬の半額を手付として男から受け取り、後は書類ができたときにという約束をした。

さて数日後、書類が出来上がったので、残金を持ってきてほしいと連絡すると、体調を悪くして行けないのでFAXして欲しいと言う。言われるままにFAXして、内容を確認してもらい、これでいいということになってから男は言った。

先方に送っておいてくれますか? 残金は銀行に振込みます。

嫌な予感は的中した。時間が経っても男からの振込は無い。

後日談がある。しばらくして楽器店から私に電話があった。

「お金は要らないから、とにかくグランドピアノだけは返してくれと再三頼んでいるのだが、全く話し合いの席に着いてくれない。」と言う。

本当に残念だが、私にはどうすることも出来なかった。ただ心から、私が引き受けて書いた内容証明書が、事態をややこしいものにしなかったことだけを、願うばかりであった。

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